大使館所在地ー

駐日リトアニア共和国大使館 兼轄:フィリピン共和国、オーストラリア連邦、ニュージーランド、シンガポール共和国、インドネシア共和国、マレーシア

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リトアニアの世界遺産

作成済み: 2015.03.03 / 更新 2015.03.04 14:23

1 ・ 世界文化遺産の一覧

世界遺産とは、1972年のユネスコ総会で採択された「世界の文化遺産及び自然遺産の保護に関する条約」(世界遺産条約)に基づいて、世界遺産リストに登録された遺跡や景観そして自然など、人類が共有すべき「顕著な普遍的価値」をもつ不動産を指す。
・ ヴィリニュスの歴史地区(旧市街)
(リトアニア語:Vilniaus senamiestis, 英語:Vilnius Historic Centre)

リトアニアの首都ヴィリニュスの旧市街は、1994年からユネスコの世界文化遺産に登録されています。中欧、東欧の中で最も大きく、美しい旧市街の一つで、歴史と文化が集積されています。
旧市街の建築物は1,500ほどあり、様々な建築様式の建物が見られます。バロック様式のものが多いように思われていますが、実際にはゴシックやルネッサンス様式もあります。
・ クルシュー砂州
(リトアニア語:Kuršių nerija, 英語:Curonian Spit)

クルシュー砂州は、バルト海とクルシュ・ラグーンを隔てる全長98kmの細長く湾曲した砂州です。浸食や森林破壊などの問題に直面しつつも、数千年来、人々が暮らす中で作り上げてきた文化的景観が評価され、2000年にユネスコの世界遺産に登録されました。

ク ルシュー砂州は、ロシアの飛地であるカリーニングラード州のサンビア半島から、北端はリトアニア本土の港町クライペダの真向かいにある狭い海峡にかけて細 長く伸びています。全長98kmのうち、北側52kmがリトアニア領に属し、残りがロシアに属しています。砂州の幅は、狭いところは400mから広いとこ ろは3800mまで、場所によってかなりの差があります。
クルシュー砂州は、ヨーロッパで最も高低差の激しい砂丘でもあり、高さ平均は35mですが、砂州の最も高い点は53.1mに達する場所もあります。
・ ケルナヴェ考古遺跡(ケルナヴェ文化保護区)
(リトアニア語:Kernavės archeologinė vietovė, 英語:Kernavė Archaeological Site (Cultural Reserve of Kernavė))

首都ヴィリニュスから約35km離れたネリス川のほとりにたたずむ古都ケルナヴェには、旧石器時代後期から中世時代にかけての居住跡、要塞、埋葬遺跡などが今でも数多く残っています。

かつて東ヨーロッパの強国として栄華を誇っていたバルト地方の人々の生活を知る上で最も重要な場所です。ケルナヴェ考古遺跡は2004年にユネスコの世界遺産に登録されました。
・ シュトルーヴェの測地弧
(リトアニア語:Struvės geodezinis lankas, 英語:Struve Geodetic Arc)

シュトルーヴェの測地弧は、ドイツ出身のロシア人天文学者フリードリッヒ・ゲオルグ・ヴィルヘルム・フォン・シュトルーヴェが中心となって、1816年から1855年にかけて設置された三角測量点群です。

これらの観測点群は地球の大きさなどを正確に測る上で非常に重要なものであり、当時設置された拠点のうち、34地点が2005年にユネスコの世界遺産に登録されました。写真:Meškonys登録地点。
これは10か国(スウェーデン、ノルウェー、フィンランド、ロシア、エストニア、ラトビア、リトアニア、ベラルーシ、モルドバ、ウクライナ)にまたがる珍しいものです。

2 ・ 世界無形文化遺産の一覧

無 形文化遺産は、民族文化財、フォークロア、口承伝統などの無形の文化遺産のこと。2003年、採択された「無形文化遺産保護条約」の第2条では、「無形文 化遺産とは、慣習、描写、表現、知識及び技術並びにそれらに関連する器具、物品、加工品及び文化的空間であって、社会、集団及び場合によっては個人が自己 の文化遺産の一部として認めるものをいう」と定義している。
・ 十字架の手工芸とその象徴
(リトアニア語:Kryždirbystė ir kryžių simbolika Lietuvoje, 英語:Cross-crafting and its Symbolism)

リトアニアの伝統的な十字架は独特のもので、建築・彫刻・鍛冶、素朴な絵画などがモチーフになっています。十字架 には、古くから伝わる植物、太陽、鳥、世界の樹木などが装飾模様として刻まれています。この装飾模様は当時の宗教、バルト教を表しています。十字架は故人 の記念のため、魔除けのため、恵みを受けるため、感謝するために作られました。

十字架作りが禁止されたロシア帝国時代(19世紀後半)や旧ソ連時代(20世紀の50ー80年代)でも、リトアニアでは十字架が作られており、19世紀頃から、様々な十字架の形はリトアニアのアイデンティティを表現する宗教的・習慣的な意味を持つ国民の象徴となりました。

シャ ウリャイ市郊外の十字架の丘は、19世紀に入ってから恵みを求め、感謝を表すために作られた十字架が世界中から集まっている場所です。このような丘は、お そらく世界の中でも唯一の場所でしょう。現在、大きな十字架は2万本以上立てられ、その中には非常に表現豊かなものから素朴なものまで、じつにさまざまな 十字架で埋め尽くされています。その中にある1本の十字架は、リトアニア人の十字架制作者が作ったもので、ローマ法王ヨハネ・パウロ二世が1993年に訪 れた際の贈り物です。

十字架作りは、リトアニア芸術の中でももっともユニークな芸術のひとつであり、2001年には世界無形文化遺産に登録されました。
・ 歌謡・舞踏フェスティバル
(リトアニア語:Dainų švenčių tradicija ir simbolika Estijoje, Latvijoje ir Lietuvoje, 英語:The Baltic Song and Dance Celebrations)

リトアニアは歌の国です。歴史的物語からは、リトアニアが特に歌に満ちた国であり、フォークソングが人々の人生とともにあ る美しいものであるということが伝わってきます。また、1,000年も昔から伝わる歌をいまだに耳にすることができ、まさに歌こそがリトアニアの精神を伝 承し、ややノスタルジックな国民性を最もよく反映していると言えるでしょう。

このような理由で、リトアニアの独創的な全ての魂(歌手、踊 り手、楽器演奏者、伝統工芸職人、俳優、作曲家、作家、振付家、画家、アマチュアの舞台監督、プロの芸術家)が一同に会する時に、伝統的な歌の祭典がとて も大切にされるのは無理もないことです。歌の祭典の精神とその壮大な美しさには、古代ギリシャのオリンピックとの類似点があると言えるでしょう。

歌の祭典が最初に開催されたのは1924年にカウナスであり、その当時で3,000人の参加者と10,000人の観客を集めました。その後85年を経て現在までに、歌の祭典は印象的で文化的な進展をもたらしています。

歌の祭典は、リトアニアでは毎4年ごとに開催されます。プログラムの内容は、基本的に以下の内容で構成されます。
- 伝統文化の地理的多様性やジャンルの多様性を広げるフォークロア・デー
- 演劇技法や様式化されたスタイルで民族文化をあらわしたアンサンブル・ナイト
- すばらしい振り付け等により上演されるダンス・デー
- フォークソングや数々のヴォーカル音楽を歌う15,000人以上の歌手を魅了し、クライマックスにはアカペラで歌うことになるソング・デー。

なお、2003年には、ユネスコがバルト三国(エストニア、ラトビア、リトアニア)の歌と踊りの祭典を世界無形遺産に指定しました。
・ 「スタルティネス」、リトアニアの多声合唱
(リトアニア語:Lietuvių polifoninės dainos, sutartinės, 英語:Sutartinės, Lithuanian multipart songs)

スタルティネス(リトアニア語sutarti(スタルティ)、「調和する、一致する」の意)はリトアニア北東部の女性達に より歌い継がれる多声合唱法のひとつで、2から5声部に分かれ、重要な主部と臨時語を含んだ反復部の二部構成により成り立っている。スタルティネスには 40ほどの種類があり、多くの場合2人の歌い手が平行して歌い、3人が厳格カノンを受け持つ。また、2つのグループに分かれ、各グループのメインシンガー が主部を歌う間、もう1人が反復部を次のグループが歌い出すまで歌う、というスタイルもあり、いずれも厳格なインターバルを含んで構成される。詩的な歌詞 は労働、カレンダー儀式、結婚、家族、戦争、歴史、そして日常の暮らしなど、さまざまなテーマからなり、振り付けはごくシンプルかつ動きの少ないもので、 輪になって腕を組んだり、星型になったりしながら足踏みをするといったものである。スタルティネスはミサや祭り、コンサートや集会などで歌われ、文化的価 値を共有し文化的アイデンティティや継続性の認識、そして自尊心を生む役割を果たした。通常女性により歌われるスタルティネスであるが、男性によってパン パイプやホルン、トランペット、フルートやシタールなどの楽器を用いたインストゥルメンタルバージョンも演奏されている。

スタルティネスは2010年11月16日にユネスコの世界無形遺産に登録された。

3 ・ 世界記憶遺産の一覧

世界の記憶または世界記録遺産とはユネスコが主催する三大遺産事業のひとつ。 危機に瀕した世界的な重要性を持つ記録遺産の最も適切な保存手段を講じることによって重要な記録遺産の保存を奨励し、デジタル化を通じて全世界の多様な 人々の接近を容易にし、広く普及することを目的とした事業。
・ 人間の鎖「バルトの道」
(リトアニア語:Baltijos kelias – žmonių grandinė, sujungusi tris valstybes laisvės vardan, 英語:The Baltic Way - Human Chain Linking Three States in Their Drive for Freedom)

ヴィリニュスからリガ経由でタリンまで人々が手をつないで作った人間の鎖・「バルトの道」は当時、世界中で大きな感動を生 んだ。1989年、リトアニア・ラトビア・エストニア三国の国民によって行われたこの平和的デモンストレーションは、世界に彼らの存在を強く印象付けた。 まさに、バルト海東沿岸における民主主義と民族自決の勝利の瞬間であった。

1939年8月23日、モスクワで独ソ不可侵条約秘密議定書が 締結された。東欧諸国はソビエト連邦に併合され、その後第二次世界大戦が始まった。9月28日にはソ連・ドイツの二国間で協議が持たれ、その内容に基づい て、ソ連は1940年にバルト三国を占領・併合することとなった。

西側諸国は秘密裏に議定書が締結されていた事実を掴んでいたが、ソ連は 50年間にわたって否定し続けた。20世紀末、経済的・政治的危機の只中で、ミハイル・ゴルバチョフ書記長はペレストロイカ(「建て直し」)を開始した。 社会を多方面にわたって民主化することで、崩壊寸前であった「帝国」を救おうとした。ソ連の内部で、独ソ不可侵条約秘密議定書について公にしようとする動 きが見られ始め、バルト三国でも、失われた国の主権を主張する動きが出始めた。

三国で、秘密議定書について最初の言及がなされたのは 1987年8月23日。翌年、首都ヴィリニュス、リーガ、タリンで大規模な自由運動がはじまった。組織したのは、まだ出来たばかりではあるが三国の国民に 圧倒的に支持されていた民主化運動グループである。具体的には、リトアニアでは改革運動サユディス、ラトビアとエストニアではそれぞれの人民戦線である。 これらが歴史的正義を実現し、主権の回復に人々を導いた。

1989年5月から6月にかけて、ソビエト連邦人民代表会議がモスクワで開かれ た。会議代表は選挙で選ばれたが、それは民主化の進行を象徴するものだった。バルト三国の代表は、主権の回復を訴える使命を帯びていた。しかしこの訴えは 無視された。議会はほとんどがソ連下の圧力支配によって活力を奪われていたからである。リトアニア、ラトビア、エストニア国民の叫びは取り上げられること のないままであった。それでも、三国代表の並々ならぬ努力により、1939年の独ソ不可侵条約秘密議定書調査委員会が発足した。ペレストロイカの中心的思 想家アレキザンダー・ヤコブレフは、議定書の存在を認め、その内容を強く批判した。しかし、委員会の足並みは揃わず、調査は難航した。

独 ソ不可侵条約締結50周年が近づく中、バルト三国では締結記念日に大規模なイベントを催す案が持ち上がった。狙いは、記念日そのものをもみ消そうとするソ 連の動きと、条約はバルトの国々のごく一部の分離派の関心事に過ぎないのだというソ連のプロパガンダとを封じることであった。

1989年 5月13日、リトアニアのサユディスとラトビア・エストニアの人民戦線で構成されたバルト議会で、「人間の鎖」を作る計画が提案された。前年の1988年 9月には、「バルト海を囲もう」という象徴的な環境保護運動が、三国にフィンランド、スウェーデン、ドイツ、ポーランドを加えた国々によって実行されたの である。

1989年8月23日午後7時、ヴィリニュスからタリンまで、600キロを超えて15分から20分間にわたって「人間の鎖」が作 られた。およそ200万人がこの「バルトの道」に参加したとされている。リトアニアだけで約6万台の自動車で各地から人々が駆け付けた。交通渋滞は起きた が、事故は一つとして起こらなかった。

その日、バルト三国民主化運動グループは、世界に向けて訴えた。そこには長年国際社会から見放され てきたことへの怒りが表れていたが、最後は希望の言葉で締めくくられていた。「東と西の兄弟姉妹たち、我々が味わった様々な不公平についてはもう水に流し てもよいと考えている - アフリカやアジアだけでなくこのヨーロッパでも、国際法は遵守されるべきだと強く主張する勇気をあなた方が持ってくれさえすれ ば。」このメッセージは国連へ届けられた。

これに対しソ連は厳しい姿勢で反応した。8月27日には、ソ連共産党中央委員会は声明を発表し た。バルト三国の動きを「民族主義的ヒステリー」と断定し、「壊滅的な結果」を招く脅威であるとした。この警告によって、バルト三国の民主化プロセスを阻 む動きが高まるのではないかと危惧された。

しかし、バルト三国の断固とした主張に共鳴する声は、ロシアや連邦諸国内で高まり、諸外国から も多くの同意が寄せられた。ジョージ・H・W・ブッシュ米大統領は、共産党中央委員会の声明について聞かれ、「ゴルバチョフ書記長はバルトの国々に対して もっと理解を示すべきであり、せめてポーランドに対して示したような許容力を持つべきだ」と述べた。さらに大統領は、三国の抱える問題を正しく認識し、訴 えに耳を傾ける必要性を強調した。

「バルトの道」が、ソ連全体のシステムが崩壊するプロセスを早めたという見方がある。一方でこの出来事 以降バルト三国とモスクワは別々の道を歩まなければならなくなったのも事実である。その結果、1990年3月11日、新しく選出されたリトアニア最高評議 会が独立回復宣言を発表し、他二国も続いて独立を果たした。1990年6月12日、ボリス・エリツィンは旧体制から脱却した新しいロシアの成立を宣言し た。1989年末までには、ワルシャワ条約に調印していた国々及びソ連衛星国はすべて実質的独立を果たし主権を回復し、1989年11月9日には、ベルリ ンの壁が崩壊した。ベルリンの壁は人々を分断したが、その壁を打ち壊し人々を一体にしたのは人間の鎖である。

ソ連の旧軍部は反対に帝国を 立て直そうと試みた。軍隊を動員し、1991年1月13日、独立直後のリトアニアのヴィリニュスを攻撃した結果、市内の施設を守ろうとした数百人が重軽傷 を負い、14人の死者が出た。ラトビアのリーガでも同様の事件が起きた。ソ連の正教派勢力はクーデターまで起こしたものの、帝国の復興には至らなかった。 これらの事件は世界に向けて報道され、国際社会はバルト三国に対する認識と理解を深めることとなった。

こうした一連のプロセスにおいて、「バルトの道」の果たした役割は計り知れない。ヴィリニュスから延々とタリンまで人々が 手をつないで完成させた「人間の鎖」は、世界中のメディアの注目を集めた。「鎖」は宇宙空間からも観測され、最も長い「人間の鎖」としてギネスブックにも 認定されている。1989年8月23日に出現したこの「鎖」は、虐げられてきた小国が立ち上がり、支配国の圧政に屈しない決意を世界に向けて表明した、力 強いメッセージであった。世界はこれに耳を傾け、共感した。「バルトの道」は、中央・東ヨーロッパの解放を象徴する最も重要な歴史的な出来事である。ま た、「人間の鎖」は2009年7月30日にユネスコ世界記憶遺産に登録された。
・ ラジヴィウ家の古文書とネスヴィジ蔵書
(リトアニア語:Radvilų archyvai ir Nesvyžiaus bibliotekos kolekcija, 英語:Radzwill‘s Archives and Niasvizh (Nieswiez) Library Collection)

• 1613年にミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ公の命により作成された原図をもとに刻まれた地図
ベラルーシ共和国ネスヴィジにあるラジヴィウ家(リトアニア語:Radvila / ポーランド語: Radziwiłł / ドイツ語:Radziwill / ベラルーシ語:Радзівіл / ラテン語:Radvil)の古文書とネスヴィジ蔵書が、フィンランド、リトアニア、ポーランド及びロシア連邦と共に2009年、世界記録遺産に登録 された。
左から右に:
• ミカロユス・ラドヴィラ・ヨーダシスまたはミコワイ・ラジヴィウ・チャルヌィ(リトアニア語: Mikalojus Radvila Juodasis / ポーランド語: Mikołaj Radziwiłł Czarny, 1515年1月4日 - 1565年5月28日)は、リトアニアの大貴族、公(帝国諸侯)。ミコワイ5世ラジヴィウと呼ばれる場合もある。ヴィリニュス県知事、リトアニア宮内長 官、リトアニア大法官、リトアニア大ヘトマンを歴任した。
• バルボラ・ラドヴィライテまたはバルバラ・ラジヴィウヴナ(リトアニア語:Barbora Radvilaitė / ポーランド語:Barbara Radziwiłłówna, 1520年12月6日 - 1551年5月8日)は、ポーランド王ジグムント2世の2番目の王妃。
• ミカロユス・クリストゥパス・ラドヴィラ・ナシュライテーリスまたはミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ・シェロツカ(リトアニア語:Mikalojus Kristupas Radvila Našlaitėlis / ポーランド語:Mikołaj Krzysztof Radziwiłł Sierotka, 1549年8月2日 - 1616年2月28日)は、ポーランド・リトアニア共和国の大貴族、公(帝国諸侯)。
ラジヴィウ家の古文書およびネスヴィジ蔵書は15~20世紀にかけてラジヴィウ家の人々により築かれた。ラジヴィウ家はリ トアニア大公国やポーランド・リトアニア共和国時代に公に遣える家人として知られ、プロシア、ロシア帝国やポーランド共和国でも歴史上重要な役割を果たし ていた。ポーランド・リトアニア共和国では、「個人、市民の自由」を目指し16世紀中旬にポーランド・リトアニア合同、1795年に3度目の領土分割が行 われた。王の不在により、いくつかの貴族家系が広範囲に及び権力を奮った。ラジヴィウ家はホーエンツォレルン家やクールラント、モルダヴィアの支配者など ヨーロッパの半分近くの王族と繋がりがあった。ラジヴィウ家の古文書は事実上リトアニア大公国の公的記録であり、それら記録や条約は一家の私的な書簡と共 に保存されていた。歴史的、文化的に価値の高いラジヴィウ家の実績や記録が積み重ねられ、世界記録遺産への登録へとつながった。

残された ラジヴィウ家の記録は、中東欧ではもっとも膨大なもののひとつで、個人所有のものとしては類のない量であり、12~20世紀のポーランド・リトアニア合同 や、リトアニア、ルテニア公国、ノヴゴロド間で交わされた条約をはじめ、7万点におよぶ記録が紛失や焼失もない状態で残されている。それら記録は古ベラ ルーシ語、ロシア語、ラテン語、ポーランド語、ドイツ語、英語、フランス語、イタリア語やその他言語で記されている。何世紀にも渡り、貴族であったラジ ヴィウ家はリトアニア大公国、ポーランド・リトアニア共和国やその他ヨーロッパ諸国で政治的、社会的、経済的、文化的に大きな影響力を持ち、ヨーロッパ諸 国で高い公的地位を占め、婚姻関係により他のヨーロッパ諸国貴族との繋がりを広げ、また外交などを通じて記録を蓄積していった。

広範囲に 及ぶ記録の数々は日記や回顧録も含み、当時の文化や社会情勢、日常生活を知る手がかりともなっている。ラジヴィウ家は多くの文化的慈善家や作家、音楽家も 輩出しており、中東欧の文化史にも大きな足跡を残している。歴史・古文書学研究者の間では、ラジヴィウ家が膨大な量のこれら記録をいかに大切に保持してき たかに注目が集まっている。

ラジヴィウ家の古文書の一部は、1819~1838年にネスヴィジの地主家系が廃れたときにロシア当局の指示 でヴィリニュスに設立されたラジヴィウ家債務清算委員会により、リトアニアのヴィリニュスで押収された。3千点近くに及ぶ古文書は、リトアニアの公的歴史 資料(「所有財産459:ラジヴィウ家債務生産委員会」、「所有財産1280:ラジヴィウ家大公」)として保存されている。
左から右に:
• スタニスワフ2世アウグスト王の印璽
スタニスロヴァス・アウグスタス・ポニャ トフスキスまたはスタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキ(リトアニア語: Stanislovas Augustas Poniatovskis / ポーランド語: Stanisław August Poniatowski, 1732年1月17日 - 1798年2月12日)は、ポーランド・リトアニア共和国の最後の国王(在位:1764年 - 1795年)。スタニスワフ2世アウグストとも呼ばれる。
• ラジヴィウ家の「ホルンの紋章」
• ミコワイ・クシシュトフ・ラジヴィウ公による書簡
ラジヴィウ家の蔵書も当時のものとしては最も膨大なもののひとつで、18世紀半ばには1万5千点を数え、東欧エリートたち の文化や知識を深め、ヨーロッパ諸国にそれを流布するのにも貢献した。蔵書は著名な古典作家や西欧作家の幅広いジャンルの作品が収められ、リトアニア大公 国内でそれらが読まれていたことが窺える。そのほかにも、ネスヴィジの出版社で刷られたものを含む、ポーランド・リトアニア共和国内で出版された本も多数 含まれていた。

多くの本の余白には書き込みがなされ、当時いかに本が大切に読まれていたかを偲ぶ貴重な資料となっている。書き込みには、持ち主が貸し出しの時に覚書として記したものも残されていた。

 

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