大使館所在地ー

駐日リトアニア共和国大使館 兼轄:フィリピン共和国、オーストラリア連邦、ニュージーランド、シンガポール共和国、インドネシア共和国、マレーシア

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歴史

作成済み: 2015.01.27 / 更新 2015.03.04 14:31

現在のリトアニアの地に人々が住み始めたのは、紀元前1万年頃のことです。リトアニアの名が初めて書物に記されたのは 1009年のドイツの「クエドリンブルグ史記」です。12世紀から13世紀頃にはリトアニアはヨーロッパの辺境に過ぎなかったにもかかわらず、ロシア、 ポーランド、チュートン騎士団、リヴォニア騎士団の注目を集めるようになっており、当時バルト海東岸に居住していた部族の状勢も変化し、カトリック宣教師 も注目していました。また、十字軍にとっても、この地域は関心の対象となっており、いつ攻められてもおかしくない状況でした。

13世紀にキリスト教化を目論むドイツ騎士団に一時征服されましたが、1236年の戦いで彼らの進出を食い止め、ミ ンダウカスのもと最初の統一を成し遂げリトアニア大公国を成立させました。1253年には、ミンダウガス大公が、リトアニアで最初で最後の王位に就きまし た。1263年、ミンダウガス王が殺害された後、リトアニアのキリスト教は弱まり、リトアニアは周囲のキリスト教諸国から適視されるようになります。そこ で1386年、リトアニア大公ヨガイラはポーランドの王女ヤドヴィーガと結婚し、自らもポーランド王として即位しました。

リトア ニアがローマからキリスト教を受け入れることを約束し国に安泰を導きます。その成果もあってヴィータウタス大 公(1392-1430年)時代には、リトアニア大公国はその領域をバルト海から黒海にまで伸ばし、ヨーロッパ最大の国になりました。しかし、1430年 にヴィータウタス大公が死去すると、リトアニアは実質的にポーランドの支配下に置かれることとなり、1569年以降はルブリン連合として合同しポーラン ド・リトアニア連合王国(ジェチポスポリタ)が成立しました。

しかしながらリトアニアと周辺国との情勢が悪化するにつれ、ポーランドの影響 が拡大してきました。18世紀末にポー ランド・リトアニア共和国はロシア、プロシア、オーストリアに分割されて消滅します。そしてついにリトアニアは、拡大するロシア帝国の餌食となってしまい ました。

19世紀、リトアニアおよび他のバルト三国地域の政治支配の主役はロシアでした。ロシア政府は「ロシアの基本政策の 復元」という命題を進めていき、その原則は、「管理不可能なものは禁止あるいは廃止する」というもので、特に打撃を受けたのはカトリック教でした。ロシア 正教が導入され、各地の地名も変更させられたほどでした。リトアニア文字は一切禁止され、キリル文字の使用が強制されこれに反するものは容赦なく排除され ました。

リトアニア住民の一部(特に貴族)はこの状況を一時的なものと捉え、ポーランド・リトアニア共和国の再建を目指しま した。1794年、1830-1831年、1864年には大規模な反乱を起こしましたが、ロシアにより簡単に鎮圧されてしまいます。最後の反乱はリトアニ ア貴族にとって大きな打撃となり、この頃から貴族の勢力が弱まり、逆に知識層と農民の力が強くなりました。政治や文化の面で次第にリトアニア民族の新たな 目標が生まれ、19世紀末には力強い民族運動が生まれ、独立国家を求めるリトアニア人の民族意識が一気に高まったのです。

第一次世界大戦 はロシアとドイツの二大帝国に混乱をもたらしました。このような国際情勢を巧みに利用し、リトアニア は1918年2月16日に独立を宣言を行いました。隣国のラトビア、エストニアとは異なり独立国の経験があるリトアニアの知識層は、国を新たに造るという よりは嘗ての国家を再建するという考えを強く持っていました。リトアニア国境の国際的承認を求めることは容易と判断していたのですが、それは期待に反して 困難を伴いました。リトアニアの行動派ソ連赤軍からの反発、そしてポーランドとの協調関係が崩れてしまいました。ポーランドはリトアニアとの共同国家を求 めましたが、リトアニアがこれを断ったために軍事紛争が起こってしまったのです。リトアニアは何とかポーランドからの独立を維持しましたが、歴史的な首都 ヴィリニュスを含むリトアニアの東部はポーランド領となってしまいました。

その後、ソ連に併合されるまでの短い独立時代ではありましたが、近代リトアニア民族の存立基盤が築かれ、近代的経済が発展しました。特に発展したのは文化と教育で、その最も優れた業績としては、文盲率がほとんどゼロになったことなどが挙げられます。

1939 年、ヒトラーとスターリンはモロトフ・リッベントロップ協定を結び、それによってソ連はリトアニアに相互援 助協定を結ばせ、無理矢理にロシアの赤軍を受け入れさせました。翌年6月、リトアニア政府はソ連に最後通牒を突きつけられることになります。その内容は、 ソ連に協調する政府をつくり、赤軍がリトアニアに自由に駐留することを認めさせるものでした。外国の支援が得られなかったリトアニアは諦めざるを得ず、当 時の大統領アンタナス・スメトナはドイツに逃亡し、その後赤軍の戦車がリトアニアに侵攻しました。そしてソ連の方式に基づき、リトアニアの行政、経済、教 育、文化などの制度は改変されました。1941年6月14日、リトアニア住民のシベリアへの大量追放が始まり、最初のソ連占領時代に合計約17500人が 追放されました。

その後間もなくソ連赤軍は一時退去しますが、今度はナチス陸軍が侵入してきました。ナチス政府は3年間に数多くの悪 事を働きましたが、最も恐ろしいことはリトアニアに居住していたユダヤ人の9割(およそ20万人)を虐殺したことです。1944年夏、赤軍はリトアニアを 再び「解放する」動きを始めました。しかしこれはナチスを追い払い自分たちが支配するための序章に過ぎませんでした。戦後、リトアニアは西ヨーロッパ諸国 がソ連の占領地域を奪還すると期待していましたが、逆に、スターリンは1939-1940年の占領地域を手に入れた上、東ヨーロッパをも手に入れました。 そこでリトアニアでは森林に隠れて活動するゲリラ人口が高まり、それは1953年まで続きました。戦後のリトアニアでは、2万人の「森の兄弟」が命を落と しました。再び追放が始まって、1945-1953年には11万人以上がソ連の奥地シベリアに追放されその多くが命を落としたと言われています。

こ のような厳しく強力なソ連支配の下でも、リトアニア人は完全なソ連人にはなりませんでした。当時のゴルバチョフ大 統領のペレストロイカがソ連支配の基盤となっていた恐怖政治を解消した直後、リトアニアは真にリトアニア国民に戻ることが適ったのです。1990年3月、 リトアニアは世界に向けて再度独立を宣言し、ソ連邦の共和国の中で最初の独立国となりました。1991年8月のクーデター失敗後、リトアニアはソ連から完 全に独立した共和国となり、国民は50年に及ぶ苦しい支配から自由を獲得したのです。

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